上杉謙信公は、越後守護代であった長尾為景の末子として誕生。幼名を虎千代と名乗る。天文5(1536)年に為景病死のため、家督は兄の晴景が継ぎ、虎千代は春日山城下の林泉寺に入り7~14歳の青年期を過ごす。謙信公の、戦国武将としては珍しい深い学識、厚い仏心はこの時代に培われたといわれる。その後、元服し長尾景虎と名乗り、病弱だった兄に代わって家督を継いで越後守護代となった。

謙信公の戦歴は、元服をした天文12(1543)年に始まる。以降、武田晴信(信玄)や北条氏康、織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねるが、その戦いは欲によるものではなく、義を重んじ出兵したものだったといわれている。武田晴信に領地を奪われた村上義清・高梨政頼らを助けるために出陣し、5回に渡り戦った川中島の合戦は特に有名。しかし、敵対していた武田晴信が今川氏真によって塩を断たれた際、今川の行為を批判し、武田に塩を送ったエピソードは有名。これを、江戸時代の陽明学者・頼山陽が讃えて「敵に塩を送る」という故事が生まれたといわれている。

謙信公の旗印「毘」の文字は、自らを生まれ変わりと信じ、厚く信仰していた毘沙門天からとったもの。総攻撃の際に本営に掲げられた「懸り乱れ龍の旗」から、越後の龍とも呼ばれた。また戦に長ける反面、和歌にも通じ、達筆であったといわれる。内政や外交にも才を発揮し、青苧(衣類の原料となる植物)を栽培し、日本海を通じて全国へ広め、それを財源にしていた。天正6(1578)年、享年49歳で人生の幕を閉じるが、その生涯は戦の連続だった。妻を持たず生涯未婚を貫くなど、戦国武将としては異色の人物であったといえる。

参考図書:花ヶ前盛明「上杉謙信」

西暦 年号 年齢 出来事
1530 享禄3   1月21日、越後守護代長尾為景(ながおためかげ)の末子として、春日山城で誕生
寅年生まれのため、幼名は虎千代。母は栖吉城(長岡市)城主長尾氏の娘・虎御前(とらごぜん)。
当時、越後は戦乱のさなかにあり、為景は上条城(柏崎)の上条定憲(じょうじょうさだのり)と戦っていた。
1536 天文5 7 春日山城下の林泉寺に入り、名僧天室光育(てんしつこういく)禅師から厳しい禅の修業と文武の道を学んだ。 深い学識や厚い信仰心はこのとき培われたといわれている。 8月、謙信の兄・晴景(はるかげ)が家督を相続。また、この年の12月に父為景が病死。
1543 天文12 14 元服して平三景虎と名乗る。 長尾家領統治のため、三条城(三条市)、栃尾城(長岡市)に移り城主となる。
1544 天文13 15 近隣の武将たちが謙信を若輩とあなどり、攻撃を仕掛けられるが、栃尾城代本庄氏、三条城代山吉氏、栖吉城主長尾氏らの協力を得て、敵を見事撃退。初陣を飾った
1545 天文14 16 10月、上杉家の老臣黒田秀忠(くろだひでただ)が謙信の兄景康を殺害し、黒滝城(弥彦)に立てこもり、謀反を起こす。秀忠は降伏するが、翌年再び謀反を起こしたたため、謙信はこれを討伐、黒田氏を滅ぼす。
1548 天文17 19 12月、守護上杉定実(さだざね)の調停により、兄晴景と「父子の義」を結び、守護代長尾家を相続。越後守護代となり春日山城へもどる。
1550 天文19 21 2月、上杉定実が死去し、上杉家は断絶。 将軍・足利義輝(よしてる)から実質的に国主大名としての待遇が与えられる。 一方、12月、一族の長尾政景(まさかげ)が坂戸城(六日町)にたてこもり、謀反を起こす。(政景は翌年8月に降伏)
1552 天文21 22 1月、関東管領上杉憲政(のりまさ)が北条氏康(ほうじょううじやす)に敗れ、謙信を頼り越後へ逃走。謙信は憲政のために御館を築造した。 4月、後奈良天皇から従五位下・弾正少弼に叙任される
1553 天文22 24 2月、兄・春景が病死。 6月、領土を奪われた信濃諸将の要請を受け、武田信玄軍と対決(第1回川中島の合戦)。 9月に初めて上洛、後奈良天皇、室町将軍足利義輝に拝謁
1554 天文23 25 北条城(柏崎)の北条高広(きたじょうたかひろ)が謀反を起こす。(翌年鎮圧)
1555 弘治元 26 第2回川中島の合戦。決着がつかず、駿河の今川義元(いまがわよしもと)の斡旋により一度和睦。 春日山城下に善光寺建立。
1556 弘治2 27 出家を志し、高野山へ向かうが断念。 箕冠城(板倉)の大熊朝秀(おおくまともひで)が謀反を起こしたため、春日山城にもどる。 朝秀を撃破し、越後の統一を完成する。
1557 弘治3 28 信濃侵略をすすめていた武田信玄にたまりかね、信玄討伐に向かう(第3回川中島の合戦)。
1559 永禄2 30 4月、精兵五千を率いて上洛。正親町天皇、足利義輝に拝謁
1560 永禄3 31 3月、松倉城(富山)の椎名康胤(しいなやすたね)らを助け、富山城主神保長職(じんぼながもと)を討伐。 8月、関東管領上杉憲政の関東帰城の大義名分を掲げ厩橋城(群馬)に入った。 謙信は以後14回にわたって関東へ出陣している。
1561 永禄4 32 破竹の勢いで関東平野を蹂躙し、北条方の諸城を攻略。ついには北条氏康の小田原城を攻め立てるが、攻略までは至らず。 この年の3月、山内上杉家を相続し、関東管領に就任。名を政虎(まさとら)、のちに輝虎(てるとら)と改める。 第4回川中島の合戦で武田氏との激闘。武田信玄と一騎打ちをしたといわれるほどすさまじい戦いだったとされる。 この合戦で武田軍は信玄の弟・信繁(のぶしげ)と山本勘助が戦死。
1563 永禄6 34 2月に騎西城(埼玉)、4月に小山城(栃木)を攻略。 6月、謙信の師であった林泉寺・天室光育禅師が死去。
1564 永禄7 35 1月、小田城(茨城)を攻略。 第5回川中島の合戦
1568 永禄11 39 越中の一向一揆と椎名康胤が越後を脅かしたため、松倉城・守山城(いずれも富山)を攻撃。しかし、出陣中に本庄城(村上)の本庄繁長が謀反。越後に戻りこれを鎮圧。
1569 永禄12 40 8月、椎名康胤討伐のため越中に出陣し、制圧。
1570 元亀元 41 3月、宿敵である北条氏康と和睦。翌年、氏康の七男の氏秀を養子とし、父子の儀を結ぶ。 12月、法号謙信を称す
1571 元亀2 42 北条氏康が死去。後継者の北条氏政(うじまさ)が同盟を破棄し、武田信玄と和睦。翌年、両軍と対陣することになる。
1572 元亀3 43 8月、越中に入り一向宗徒と戦う。10月富山城を攻略。
1573 天正元 44 武田信玄が病死。7月に椎名康胤、神保長職を討伐して、越中を平定
1574 天正2 45 北条氏政に対抗し、関東に出陣。金山城・騎西城・羽生城などを攻略。 同年12月、剃髪し、法印大和尚に任ぜられる
1576 天正4 47 本願寺顕如と和睦。また、足利義昭(よしあき)の要請を受け、武田・北条両氏と和睦し、反信長体制を築く。 越中を平定し、能登に進む。七尾城(石川)を攻め立てるが、攻略できず。
1577 天正5 48 再び能登に侵攻。このとき七尾城に伝染病が流行し、多くの兵が病死。謙信に心を寄せていた遊佐続密(ゆさつぐみつ)が謙信と通じ、反乱を起こし、能登も上杉家の支配下となる。
1578 天正6 49 関東大遠征直前に脳溢血で倒れ、帰らぬ人となる。
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