親鸞聖人ゆかりの地めぐり
上越市に残る親鸞聖人ゆかりの名所を旅するコースです。
所要時間 3時間40分
浄土真宗の開祖・親鸞聖人が承元の念仏弾圧(1207年)で越後国府に御流罪となったのは、今から800年前のこと。この地で聖人は、罪を許されるまでの4年、さらに常陸国(現茨城県)に旅立つまで3年の計7年を過ごしたといわれています。この間、恵信尼と出会い結婚、子どもにも恵まれました。雪国での生活は暗く、苦しいという印象を受けますが、聖人は恵信尼に支えられ、その信仰を深めていったといわれています。聖人が著した『教行信証』には「海」とつく言葉が繰り返し出てきます。これは、越後国府での生活が聖人の思索に深い影響を与えたという証といえるでしょう。聖人が没して750年。聖人の足跡が今なお残る、上越の名所・旧跡を訪ねてみましょう。
北陸自動車道「上越IC」
居多ヶ浜(親鸞聖人上陸の地)
日本海を渡った潮風が吹き上がる直江津の高台。「親鸞聖人上陸の地」は住宅地を抜けた高台に位置し、整備された公園になっています。 見晴し台からは紺碧の日本海が望め、奥には親鸞聖人の像を安置した見真堂(けんしんどう)や親鸞聖人にまつわる数基の句碑や像が建てられています。
居多神社
居多神社は親鸞聖人が上陸したのち、一番最初に参拝した神社であるといわれています。 親鸞聖人はここで「すえ遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは」と詠み、早く赦免になるよう、そして念仏が盛んになるようと祈願したのです。 鳥居をくぐり、石段を登ると小さな社と親鸞聖人の像があります。 また、ここには親鸞聖人にまつわる七不思議の一つ「片葉の葦(かたはのあし)」が群生しています。 親鸞聖人が先の句を詠んだのち、居多神社に生えていた葦が一夜にしてすべて片葉になったといわれています。
五智国分寺
居多ケ浜に上陸後、親鸞聖人が約1年を過ごしたのが五智国分寺であるといわれています。 しかし、現在の国分寺は上杉謙信公が永禄5年(1562年)に再興したものといわれ、親鸞聖人が配所された頃の国分寺の場所は未だ不明です。 市の指定文化財である山門には天保6年(1835年)作の仁王像が構え、そこを抜けると正面にまだ新しい本堂があります。 右手には県の指定文化財である三重塔、左手には元禄6年(1693年)建立の市内最古の建物・経蔵が建っています。
竹之内草庵
国分寺本堂の右手側に位置しており、親鸞聖人が住んでいたといわれる草庵です。竹林に囲まれていたことから、この名前がつきました。草庵には、親鸞聖人が国分寺北にある「鏡ケ池」に姿を映しながら掘ったとされる「親鸞聖人坐像(市指定文化財)」が安置されています。
本願寺国府別院
五智国分寺の竹之内草庵から、二つ目の配所・竹ヶ前草庵(たけがはなそうあん)へと移った親鸞聖人。ここで恵信尼と共に暮らしていたといわれています。 正面には大きな銀杏の木がまっすぐに立ち、その奥に文化2年(1805年)建立の本堂と庫裡(寺院の住居にあたる建物)の大きな屋根が見えます。聖人が罪を赦され関東へ旅立った後、約600年の時を経て参拝者のために本堂が建立され、後に「小丸山別院」となり、現在は国府別院と改称されています。本堂に向かい左手側には竹ヶ前草庵跡を示す石碑が、右手側には親鸞聖人の像と聖人が上陸したときの様子を再現したといわれる三体の像が建っています。
浄興寺
親鸞聖人が開山した古刹・浄興寺。 もともとは常陸国にあったものですが、信濃国(現長野県)を経て、上杉謙信公の招きでこの地へ移ってきました。 本堂は国の重要文化財で、真宗寺院では県下最大で最古のものです。 また、本廟には親鸞聖人の頂骨と本願寺歴代門主の分骨が納められているといわれ、市の指定文化財です。
ゑしんの里記念館
親鸞の妻、恵信尼は晩年を板倉で暮らし、この地で亡くなりました。その生涯は流罪となった親鸞を支え、東国に移住してからは各地を転々とし、晩年は板倉に移り、飢饉のなか子どもや孫たちまでも面倒をみるといった苦難の多いものでした。しかし恵信尼は、そうした苦難にも負けず、逞しく、ときにはユーモアをもって、当時としては稀な87歳をこえる長寿を全うしました。恵信尼が残した「恵信尼文書」は、恵信尼や親鸞の生活をあざやかに描き出し、また鎌倉時代の女性の筆による史料として貴重なものとなっています。