花ヶ前盛明さんインタビュー

花ヶ前盛明(はながさき もりあき)さん略歴
昭和12(1937)年、新潟県直江津(現・上越市)生まれ。
國學院大学大学院修士課程(日本史学専攻)を修了。越後一の宮 居多(こた)神社宮司、新潟県文化財保護指導委員、上越市文化財調査審議会委員、上越郷土研究会会長などを務める。
著書に『上杉謙信と春日山城』(新人物往来社)、『中世越後の歴史』(新人物往来社)、『上杉謙信』(新人物往来社)、『越後 上杉一族』(新人物往来社)、『上杉謙信』(新潟日報事業社)などがある。

居多神社と上杉謙信の関係

居多神社は大国主命(おおくにぬしのみこと)、奴奈川姫(ぬながわひめ)、建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀った式内社で、今から2000年前の人たちが建てた大変歴史ある神社。居多神社が越後一の宮と呼ばれるようになったのは、上越に国衙(こくが)が置かれたためで、派遣された国司が居多神社を崇拝して、厚く保護されてきました。室町時代になって上杉氏は居多神社を崇敬して、領地を寄進し、ここから上杉家と居多神社の関係が生まれます。居多神社の神主であった花ヶ前家は、上杉家の外交官的な役割を担うようになり、京都で将軍や織田信長などと折衝するなど上杉謙信のブレーンの一人だったそうです。


謙信公は21世紀にも通用するような人物

Q. 上杉謙信公はどのような人物だったのでしょう?

謙信は、戦国の世にありながら本当に稀なる武将であったと、そのように考えています。時の武将たちは、領土を拡張して天下を獲ろうと割拠していたのに対し、謙信は全く異なった理由で戦に臨んでいるんですね。例えば、四度目の川中島合戦を前にした永禄3(1560)年、小田原・北条氏が領土を広げようと進攻し、関東の佐竹氏が謙信に助けを求めてくるんですが、そんな中で謙信はこんな内容の手紙を書いているんです。「自分は“えこ”で戦をしたり、援助をしたりするんじゃないんだ。」と。“えこ”とは、えこひいきのことで、そういう戦はしない、と書いているんです。また、謙信は生涯で川中島に5回、関東に13回、能登・越中に10回と出陣しているのですが、その全てが私利私欲によるものではない、義を重んじたものだったわけで、それについては謙信が書いた手紙や起請文(願文)が残っています。今から450年前の武将が、そのような理由で戦をするということは当時ではあり得ないこと。私が謙信の書いた文を通じて感じることは、謙信は現代にも通ずるような人物であったと。そのように考えています。

Q. 群雄割拠の時代に、私利私欲なく戦った謙信。謙信の考える統治とはどういったものだったのでしょう?

謙信の考える政治の行き着くところは、室町将軍がトップに立った統治であったと思います。天正5(1577)年、謙信は能登の七尾城攻略後、手取川(石川県白山市)で柴田勝家(織田軍)と戦うのですが、手紙で「織田軍、案外弱し。この分なら天下を平定することは簡単である」と書いているんです。謙信も天下を統一しようと考えていたのですが、それはあくまでも将軍が統治するべきというもので、武田信玄や織田信長、豊臣秀吉のように自らが天下を収めようと考えていたのではないのです。自分は国の人たちを守り、関東管領として将軍の政治をサポートする。それが、謙信が考える統治であったと思われます。でも、当時の幕府はもう弱体化していて再興は難しかったでしょうね。

Q. 謙信の考えは前時代的だった?

やっぱり保守的であったと思います。その点、織田信長は非常に革新的だったでしょうね。でも、そのことに謙信は気付いていたのか、どうなのか。それはもう知る由もありませんが、ただ言えるのは、謙信も天下の平定を願っていた。でも、ほかの戦国武将のように私利私欲で天下を統一しようと考えていたのではなくて、あくまでも朝廷・幕府を戴いた体制を築いていきたいと思っていたのは間違いないでしょう。「例え、自分一人になったとしても将軍をお守りします」と書いた手紙が残っています。前時代的か?とありましたが、謙信は24歳のとき、一度目の上洛で大坂の堺まで足を伸ばしています。やっぱり商業の発展について考えていたのでしょう。織田信長ばかりが発展的だったといわれていますが、謙信も経済的なことはちゃんと考えていたと思います。


名僧との出会い

Q. 謙信の戦国武将らしからぬ精神はいつ培われたものだったのでしょう?

やはり7~14歳のころ、林泉寺での天室光育(てんしつこういく)の教育によるものだと思います。それが謙信の考え方の根幹になっているでしょう。それは、謙信が27歳の時に書いた手紙に明記されています。謙信は生涯、妻を持たなかったけど、24歳の時に京都の大徳寺で名僧・徹岫宗九(てっちゅうそうく)から三帰五戒(さんきごかい)*の教えを受けるんですね。それが謙信が妻をもたなかった理由じゃないかなと。五戒の中の邪淫戒(女性とみだりに交わらない)というのを受けて結婚しなかったのではないかと思います。ただ、五戒には飲酒戒というのもあるんですが、謙信はそれだけは守らなかったみたいですね。かなりの大酒飲みだったといわれてますから。
※三帰五戒  三帰は仏・法・僧に帰依すること。五戒は人として守るべき5つの戒律。殺生戒・邪淫戒・妄語戒・偸盗戒・飲酒戒のこと。

Q. 統治者としての謙信はどういう人物だったのでしょう?

謙信の政策に背いた家臣もいました。上越市板倉区の大熊朝秀(おおくまともひで)や柏崎市北条の北条高広(きたじょうたかひろ)、村上市の本庄繁長(ほんじょうしげなが)たちは武田信玄側につきます。武田信玄は謀略家として優れている面があったし、謙信はそういう面が戦国武将として欠けていた。だから、武田信玄の家来を味方につけるなんてことはしなかった。戦国の世にあって、統治者としては欠けている部分もあったでしょう。助けを請われて関東に出征する、戻ってくると地元も荒んでいる。それでも、侵略をすることなく戦ったのですから、謙信は崇高な精神の持ち主であったと思います。でも、当時は他国を破って土地を侵略し、それを家臣に分け与えて士気を高めていったわけですから。謙信は武将として優れてもいましたが、気高い精神ゆえに戦国の世を平定することは難しかったでしょうね。